(1)練馬区前史 太古から板橋区編入まで
太古の練馬を物語る多くの遺跡
練馬区内には3万年以上昔から人が住んでいた。太古のねりま人たちは清らかな水を求めて、三宝寺池、井頭池、富士見池などの湧水池(ゆうすいち)や、石神井川、白子川、田柄川、中新井川といった自然河川の付近に住んでいた。
その時代の人々は、生活に必要な水や、動物や木の実などの食料を得るため、川の近くの台地上に竪穴住居(たてあなじゅうきょ)を作り、住んでいた。
縄文時代には人々は集団で住むようになり、弥生時代には、稲作が取り入れられるようになってくる。
区内には各河川沿いに、旧石器時代から江戸時代までの各時代にわたる100か所以上の遺跡が発見されている。
豊島氏所領から江戸幕府の直轄領へ
8世紀ごろの宿駅「ノリヌマ」を「練馬」の由来とする説もあるが、確実に練馬が歴史上に現われるのは、もっと後になってからである。
鎌倉時代の弘安5年(1282)、豊島氏と婚姻関係を結ぶ一族が石神井を所領していたのは明らかである。それ以後、練馬・石神井は江戸氏と同族の豊島氏の領地となる。
豊島氏は、北区域を平塚城(北区中里)、練馬区域に練馬城(豊島園内(※))と石神井城(石神井公園内に城跡あり)を拠点とした。豊島園の名前は、豊島氏に由来する。
その豊島氏も室町時代には太田道灌に滅ぼされ、三宝寺池周辺で語られる金の鞍(くら)と照姫の物語は、その悲話を語っている。
江戸時代になると、現在の練馬区に当たる大部分の村は、幕府の直轄領となった。江戸が栄えるにしたがい、練馬の村々も都市近郊農村として開けていった。千川上水は、はじめは江戸市中の飲料用として開設された上水だったが、農民の強い要望で田用水として利用できるようになった。
練馬大根のころ
江戸時代も半ばを過ぎると、練馬大根をはじめ、野菜の栽培が盛んになった。農民の暮らしもだんだん向上していった。村では庚申講(こうしんこう)や念仏講などの民間信仰が盛んになった。富士山や大山詣(もう)での人たちで、練馬の富士街道はにぎわった。村の神社や寺院は整備され、そこを訪れる江戸の文人(文芸に親しむ人)も増えた。長命寺・三宝寺・妙福寺などを記した紀行文や随筆でそのことがうかがわれる。
明治維新は練馬の村々にもいろいろなことをもたらした。地租改正、学校令、徴兵令など目新しいことがたくさんあった。しかし、大多数の人々の生活は、江戸時代と大して変わらなかった。夜の明けないうちに家を出て、荷車・荷馬車に山盛りの練馬大根を東京へ売りにゆく。帰りには肥やしを積んで帰ってくる。今では繁華街になっている練馬駅前の千川通りも、明治時代には肥やしを積んだ車の列がひっきりなしに続いていたという。
1町4か村、板橋区編入
明治22年の町村制、同24年の大泉村成立で、それまで14か村あった練馬の村は合併して中新井・下練馬・上練馬・石神井・大泉村の5か村となった。「村長の時代」は、これから43年間続くのである。
大正3年に、東上鉄道(現在の東武東上線)が、翌4年に武蔵野鉄道(現在の西武池袋線)が開通した。同12年には関東大震災が起きた。それまで静かな農村地帯であった近郊郡部は、市中からの人口流入でみるみる膨張していった。
下練馬村は昭和3年公布、翌4年施行で練馬町となった。間もなく、市郡合併の気運が高まり、練馬の1町4か村は板橋区に編入されることとなった。住民は猛反対運動を起こした。単独の練馬区成立を願っていたからである。だが、ついにかなわず、板橋区編入が決まった。それから、練馬区独立運動が始まる。
(※)現在の都立練馬城址公園
昭和61年6月1日号区報
写真上:都立城北中央公園内にある栗原遺跡の竪穴住居跡 平成30年
写真下:石神井城址碑と石神井城跡 令和4年