移り変わる白子川

ねりまの川

〈土地改良で宅地化が促進〉

 練馬区域で最後まで水田があったところは、白子川流域でした。それだけ都市化の進みが緩やかだったからでしょう。
 もちろん、水田の中心は下流の板橋区などでしたが、上流の大泉や土支田地域でも米作りには大きな努力が払われていました。昭和31年に東大泉周辺で行われた土地改良(区画整理)も、その努力の表れでした。これは、曲りくねった水路を直線的に付け直し、入り組んだ水田を短冊状に整える工事でした。ところが皮肉にも、これが宅地化への導火線となったのです。
 「これからは、より多くの米ができると思っていましたが、このころからだんだん家が建ち始め、田んぼが徐々に宅地になりました」(東大泉四丁目にお住まいの方)という状況になります。この方の家では2反(約19.84a)ほどの水田を最後まで守っていましたが、それも昭和41年頃までだったそうです。

〈水害と川の改修〉

 大泉地域には、旧地名に「窪(久保)」あるいは何々窪と呼ばれたところが多く、こうした場所は周辺より土地が低く、雨が降れば水がたまりました。特に、白子川に沿うところでは、川の水があふれるなど、水害に見舞われたものでした。文字どおり、「水溜(みずったまり)」という小字さえあったくらいです。
 このようなところに家が建ち始めてから、水害は大きな社会問題となっていきます。
 特に、昭和33年の狩野川台風は、白子川流域にも、多大な被害をもたらしました。この台風は東京都の河川対策を根本から見直すきっかけとなり、その後、河川改修工事に拍車がかかることになります。
 白子川については、先の土地改良の際に川筋の直線化が行われていますが、今日見られるコンクリート護岸となったのは、昭和43年以降でした。

〈運動場兼用の調節池〉

 このコンクリート護岸の工事は、1時間当たりの降雨量30㎜に対応するための暫定改修といわれるもので、本来1時間当たり降雨量50㎜に対応できる本改修を前提としたものでした。この本改修のためには、下水道の完備に加え、さらに、川幅や川底の拡張を必要とします。しかし、埼玉県側の事情や、川幅拡張のための土地入手が難しく、これに代わる方法として、洪水調節池の建設が行われることとなりました。
 これは、川に接して大きなプールを設け、洪水の恐れのあるときには、ここへ水を落として、川のはんらんを防ごうとするものです。
 こうして現在、比丘尼橋の上流部に調節池が完成し、ふだんは運動場として利用できる施設となっています。さらに、この下流部にも一か所、調節池の建設が予定されています。(※)

移り変わる白子川

 「ねりまの川」は、今回で終了させていただきます。人と川とのかかわり合いには、「利水」と「治水」の二面があるようです。昔は川の利用(利水)こそが練馬の人々の大きな関心事だったのですが、都市化とともに、水との闘い(治水)の歴史に代わりました。今後は、再び「利水」への歴史を開くことが、私たちの大きな課題のように思われます。

(※)区立びくに公園庭球場・多目的広場です。下流部の調節池は平成14年7月に完成しました。上部は区立大泉橋戸公園になっています。

昭和63年7月21日号区報

写真(上):白子川のコンクリート護岸工事 昭和50年頃
写真(下):びくに公園庭球場・多目的広場(比丘尼橋上流調節池) 奥に見えるのは東京外かく環状道路建設工事 令和4年

◆本シリーズは、練馬区専門調査員だった北沢邦彦氏が「ねりま区報」(昭和61年4月21日号~63年7月21日号)に執筆・掲載した「ねりまの川-その水系と人々の生活-」、および「みどりと水の練馬」(平成元年3月 土木部公園緑地課発行)の「第3章 練馬の水系」で、同氏に加筆していただいたものを元にしています。本シリーズで紹介している図は、「ねりま区報」および「みどりと水の練馬」に掲載されたものを使用しています。