白子川水系と主な湧水池(2)
前回に引き続き、白子川水系に見られた湧水池(今も一部残る)とその周辺の景観を紹介します。これらの湧水池については、文献に見られないものも多く、区民の皆さんのご教示を参考にさせていただきました。
<宮下池>
東大泉4-25にある北野神社の北側は、崖状に土地が落ち、白子川沿いの低地となっています。ここに、かつては池があり、神社の下ということから、「宮下池」といわれていました。池の周辺にはフジの木が茂り、季節になれば美しい花を咲かせていたといいます。池から湧く水は北に向かい、白子川に注いでいました。
この池は、昭和36年、大泉小学校の校庭を拡張する際に埋め立てられ、同校校庭の一部となりました。
<弁天池(東大泉)>
東大泉弁天池公園(東大泉3-37)内に今もある池です。この池の北西隅に木造の祠(ほこら)があって、中に石造りの蛇体弁天が祀(まつ)られているところから、「弁天池」と呼んでいますが、以前は、当地の旧小字地名「久保」にちなんで、「久保の池」と呼ばれていたといいます。
この池の西の崖上は、戦前に、朝霞の陸軍予科士官学校などに関係した軍人の住む「将校住宅」として開発された所で、今は閑静な住宅地です。北側の低地は、都営住宅となっています。
池は、現在、地下水をくみ上げて水位を保っていますが、その昔は自然の湧水で、今より規模も大きく、弁天祠(べんてんし)も池の淵にあって、その脇に杉の大木が池の上を覆うように枝を張っていたといいます。一帯にアシが生え、木が茂り、ヨシキリやカイツブリ、カモ、クイナなどの水鳥が群れていたそうです。
都営住宅一帯は以前は水田で、池の北西から白子川の水を引いていて、その水路が、池にも入っていたようです。その水の取り入れ口に堰(せき)があり、これを「御園(みその)の堰」と呼んでいました。池の水は、東に向かい、白子川に注いでいました。
都営住宅は白子川沿岸の低地部を埋め立てて造成されたもので、最近になってこの付近の一部で発掘調査が行われています。この結果、縄文中期と推定される木製漆塗りの器、竹かご、加工木の一部などが発掘され、全国的にも珍しい低湿地遺跡として注目を集めています。
現在、なお、調査結果の分析が続けられていますが、あるいは白子川の水田形成の時期とその範囲を知る手掛かりが得られるかも知れません。(※1)
<八の釜の池>
東大泉2-28付近は、かつて「谷(や)」と呼ばれた所で、ここに湧水池があり、水の湧くところを「釜」といったところから「谷の釜(やのかま)」と称したらしく、現在では「八の釜」と表記しています。
この池は、また、富士山や御嶽山(みたけさん)など「お山」参拝に向かう人たちが水ごりをした精進場(しょうじんば)でもありました。
ここは現在もなお、美しい水の湧く場所として残り、区では東側台地斜面の森を含む一帯を、一部は区民の方からお借りし、一部は区で買い上げて、「八の釜憩いの森」として保存、公開しています。水辺で夢中になって遊ぶ子どもたちの姿が、印象的です。(※2)
<弁天池(大泉町)>
大泉町2-3、関越自動車道の下辺りに、かつては池があり、ここに弁天が祀られていたところから、「弁天池」と呼んでいたそうです。
今は人家が立ち並んでいますが、そのころは森に覆われていたとのことです。関越自動車道の建設で風景もだいぶ変わりました。(※3)
(※1)発掘調査は昭和61年と62年の2回に渡って行われ、平成元年12月に「練馬区弁天池低湿地遺跡の調査」報告書がまとめられています。また、出土した「縄文時代の竹かご」は平成2年度区登録文化財に登録されています。
(※2)現在、「八の釜憩いの森」はありません。また「八の釜の湧き水」は平成3年度に区天然記念物に登録されましたが、東京外かく環状道路建設工事のため、当分の間、見学ができません。
(※3)弁天池は埋め立てられましたが、現在この場所に、かつての弁天池の復元をイメージして造った人工池「弁天池跡」が整備されています。
昭和63年1月21日号区報
写真(上):八の釜の湧き水 平成17年
写真(下):弁天池跡(大泉町) 平成29年
◆本シリーズは、練馬区専門調査員だった北沢邦彦氏が「ねりま区報」(昭和61年4月21日号~63年7月21日号)に執筆・掲載した「ねりまの川-その水系と人々の生活-」、および「みどりと水の練馬」(平成元年3月 土木部公園緑地課発行)の「第3章 練馬の水系」で、同氏に加筆していただいたものを元にしています。本シリーズで紹介している図は、「ねりま区報」および「みどりと水の練馬」に掲載されたものを使用しています。