白子川の名称と源流
現在の白子川の範囲は、東大泉七丁目の大泉井頭公園南にある七福橋から北側で、板橋区と埼玉県和光市との境で新河岸川と合流する所までとされています。今は河川改修も行われ、川筋も直線化されましたが、その昔は相当に入り組んだ川でした。この川は、かつての豊島郡(東京側)と新座郡(埼玉側)との境目となっていました。
<名称>
既に江戸時代から「白子川」の名称はありましたが、『新編武蔵風土記稿(1810~1828)』には、「白子川」として「モト一条ノ流レナレド、至ル所ニヨリテ名ヲ異ニスル」と記され、各村別の項目中にいくつかの名称がみられます。
流域の村と川の呼称を上流からあげてみますと、小榑(こぐれ)村、土支田村(以上現練馬区。橋戸村には川の記載がない)、上白子村、下白子村(以上現和光市)までが「白子川」。成増村、上赤塚村(以上現板橋区)では「矢川」。下新倉村(現和光市)では「新倉川」とあります。
このほかにも、明治7年の『東京府志料』、同8年の『武蔵国新座郡村誌』などには、上土支田村、下土支田村で「土支田川」、小榑村、橋戸村で「小井戸川」などと記されています。さらに、郡境だから「境川」といったという人もあり、また本流から水田用水として分水したいくつかの用水路にも村の名を付けている場合があって、川はそこを流れる地域と切り離せない存在であったことがしのばれます。
この中で「白子川」が今日統一した名として残ることとなりましたが、この名は白子村から取られています。白子村の名の起こりは、古代この辺りに朝鮮半島にあった新羅(しらぎ)の国の人々が置かれ、志楽木(しらぎ)郷と称した名残りとの説があります。
<源流はどこか>
先の『新編武蔵風土記稿』に「井頭池ヨリ出」とあるのをはじめ、江戸期の土支田村明細帳にも小榑村、土支田村両村境に「白子いかしら(井頭)」という所に3反歩(約2,975㎡)ほどの「溜井(ためい)」があって、これから用水を引いたとあるように、白子川の源流は大泉の井頭池(現大泉井頭公園)と解されています。また、大正7年の『東京府北豊島郡誌』にも「大泉村より発し」と記され、今日の東京都の考え方もこれに準じたものと思われます。
しかし、この川にはその先(上流)があります。一流は七福橋から南大泉三丁目地内をさかのぼり、保谷市(現西東京市 以下同じ)東町三丁目と四丁目の間の道路下を南に向かい、さらに西方の保谷市役所(現西東京市役所保谷庁舎)をう回して、泉町の如意輪寺先で二手に分かれ(この間、主にコンクリートふたかけで残る)、田無市(現西東京市 以下同じ)谷戸町と保谷市泉町に源を発するものです。七福橋からの延長は保谷市で「新川」といっています。
もう一流は、中島橋の上流のあたり(西大泉一丁目)で保谷市方面から合流してくる川です。こちらも先をたどれば西武池袋線ひばりが丘駅の東方までコンクリートふたかけで残り、その先は地表には表われませんが、元は、保谷市住吉町三丁目辺りが源頭だったようです。この中島橋の上流付近から西方にさかのぼる川を保谷市側では白子川の延長ととらえており、「大泉堀(だいぜんぼり)」と記したものもあります。
この2つの流れとも自然の谷が発達しており、古くからの川筋であったことが分かります。
昭和62年12月21日号区報
写真:井頭池 昭和31年頃
◆本シリーズは、練馬区専門調査員だった北沢邦彦氏が「ねりま区報」(昭和61年4月21日号~63年7月21日号)に執筆・掲載した「ねりまの川-その水系と人々の生活-」、および「みどりと水の練馬」(平成元年3月 土木部公園緑地課発行)の「第3章 練馬の水系」で、同氏に加筆していただいたものを元にしています。本シリーズで紹介している図は、「ねりま区報」および「みどりと水の練馬」に掲載されたものを使用しています。