田柄用水ー水田以外への利用
田柄用水は水田灌漑(かんがい)を第一の目的として引かれたものでしたが、灌漑以外にも、水車を稼働させる工業用水、野菜などを洗う生活用水としても利用されていました。
<水車への利用>
田柄用水沿いの水車で、練馬区域内に見られたのは、つぎの7か所とされています。
桜井水車(南大泉一丁目)、島崎水車(石神井台三丁目)、速見水車(石神井町四丁目)、鴨下水車(三原台一丁目)、関口水車(土支田三丁目)、金子水車(田柄四丁目)、下宿水車(北町一丁目)。(※1)
こうした水車は、多くの場合、米や麦の精白や製粉を目的として設置されていますが、ときには銅線づくり(金子水車など)に利用されるなど、初期工業の原動力として重要な役割を果たしていました。水車稼働の最盛期は、明治半ば頃から昭和初期頃まで、以後、徐々に廃止あるいは電動化されたようです。
こうした水車経営には、初めから厳しい制約があり、政府への届け出はもちろん、隣接する村々の了承も取り付けなくてはなりませんでした。このため、水車に関する資料は、公文書として残されている可能性が高く(現在、鈴木芳行編著「近代東京の水車ー『水車台帳』集成ー」(岩田書院)に成果が発表されています)、その一部(写し)が土支田の小島家にも所蔵されています。(※2)
このうち、明治12年1月付けの「證書」には、下石神井村の所有地内に新規に水車経営するに当たって、上流および下流の村々に支障の有無をただしたところ、支障はないため、ここに「證印」をすると記し、田無村用掛り以下、上保谷、関、上石神井、下石神井、下土支田各村の戸長や総代の連名が見られます。
また、前出の鴨下家の水車については、明治22年に鴨下由右衛門名で東京府知事あてに出された「水車器械新築之願」によって、水車の直径は3丈(約9m)、つき臼(うす)13本、ひき臼4個の規模であったことが分かります。(※3)
<生活用水への利用>
田柄用水は、保谷市本町(現西東京市保谷町)地内で大きく弧を描いてから、富士街道に出て、以後、街道沿いに練馬区域に向かいます。
このカーブした部分には、旧上保谷村の名主ほか主要な農家が点在しており、用水は、これら農家の庭先を通っていたらしいことが、最近の調査で分かってきました。この地域は、地下水も浅く、飲み水は各戸ごとに井戸を掘って利用していましたが、新しく田柄用水が開かれてからは、用水の水を野菜洗いに充てようです。
このような例は、練馬区域にもあり、その中で、石神井台8-21の地所は、今日、田柄用水の跡が口を開いている唯一の場所です(写真)。富士街道から数m南に引き込まれていたことも、遺構を残すうえに幸いしたようです。
街道沿いのケヤキ並木と共に、この水路を永く保存したいという土地所有者の意向は、自然回復をめざし、人間の営みの歴史を大切にしたいとする練馬区にとって大きな励みともなり、昭和57年、区ではこの土地を借り受け、「けやき憩いの森」を開設しました。(※4)
この水路は、明治4年の田柄用水開設当初から敷地内引き込まれたものらしく、同家ではここに洗い場を作って、商品たくあん用ダイコンなどの野菜を洗ったとのことです。
また、水路に接してあった建物では、戦前まで製茶が行われたともいい、それ以前には米の精白をしていたとの言い伝えもあるそうで、あるいは水車などがあったのかもしれません。
このほか、田柄用水沿いには、共同の洗い場が光が丘の東端付近にも見られたということが伝えられています。
(※1)現在、7か所の水車はすべて見られません。 また、時期によって所有者が変わり、同じ水車であっても名称が異なる場合があります。
(※2)小島家文書は、平成元年度区指定有形文化財。
(※3)鴨下家文書は、令和2年度区登録有形文化財。
(※4)現在は、土地の一部を練馬区土地開発公社が所有しています。
昭和62年9月21日号区報
写真:けやき憩いの森にある田柄用水跡(平成14年度区登録史跡) 平成29年
◆本シリーズは、練馬区専門調査員だった北沢邦彦氏が「ねりま区報」(昭和61年4月21日号~63年7月21日号)に執筆・掲載した「ねりまの川-その水系と人々の生活-」、および「みどりと水の練馬」(平成元年3月 土木部公園緑地課発行)の「第3章 練馬の水系」で、同氏に加筆していただいたものを元にしています。本シリーズで紹介している図は、「ねりま区報」および「みどりと水の練馬」に掲載されたものを使用しています。