千川上水が暗きょに

ねりまの川

<旧千川通りの風情>

 大正4年、千川上水の堤には大正天皇の即位を記念して桜と楓(かえで)が植えられました(江古田浅間神社に石碑が残る)。このときの桜は1,600本を数えたといわれ、春には花見の客が訪れ、露店も出て大いににぎわい、玉川上水沿いの桜の名所、小金井にちなんで「新小金井」とも呼ばれていました。
 夏には蛍が飛び交い、川を泳ぐ魚も豊富で、付近の子どもたちには格好の遊び場となっていたようです。水を汚すことは厳しく禁じられていましたが、看視人の目を盗んで泳ぎ回る子どもの姿は絶えなかったといいます。
 桜の木は第二次大戦中に防空壕(ぼうくうごう)を築く材料として相当切られたといいますが、それでも戦後の暗きょ化工事まではかなり残っていたようです。
 昭和25年8月1日に、区制3周年を祝って、練馬本町通り商業連合会ですずらん灯を1軒に1本あて設置しました。その灯影が千川上水に映えて、活気があるとの記事が、当時の地元紙に載っています。

<都市化と上水>

 千川上水は、明治13年以後千川水道会社によって都市への飲料水供給が再開され、一方で水田灌漑(かんがい)や王子・板橋での工業用水への利用が行われ、その役割はまさに最盛期を迎えた感がありました。しかし、東京の市街化は急速に進み、近代水道の普及が進むにつれて、明治41年には千川水道会社は解散しました。また、大正12年の関東大震災以後、流域の宅地化が進められ、昭和7年の大東京市成立を迎えるころには、上流部周辺でも水田が徐々に姿を消していきました。
 この結果、水田灌漑に利用された分水の多くは昭和10年代で利用が中止され、その後は主に板橋や王子での工場に利用されることとなりました。工場での水は常に不足がちで、昭和10年には、石神井川の水を豊島園(※1)東側の中之橋下流わきから千川上水までポンプで揚げて利用したといいます。
 上流に位置する練馬区域での千川上水利用の歴史は、このころすでに幕を閉じつつあったのです。役割を失った川は、付近の住民にはさまざまな弊害をもたらすものとして映りました。

<暗きょ化への動き>

 昭和23年10月に、区議会から東京都知事に出された意見書には、千川上水の弊害として降雨時の氾濫(はんらん)・浸水被害、子どもの水死事故、衛生問題があげられ、これらに対する善処を訴えています。
 以後、暗きょ工事への要望が高まりましたが、水路管理権移管の問題(当時は板橋区長が管理)や工事費用の問題(当時、暗きょ化には5,000万円必要)から、本区内での実施は昭和27年3月以降となりました。

<水流復活へ>

 都市から自然が失われつつある現在、川は再び見直されようとしています。昭和59年には野火止用水が、61年は玉川上水がそれぞれ水流を復活させ、千川上水もまた、63年春には上流開きょ部に水が通る計画となりました(※2)。練馬区内で水が通る部分は、武蔵野市境も含めて、延長約2㎞です。区間には制限があり、当面は流末を善福寺川に落としています。そこで、下流部の区民から「部分的にでも復活の可能性はないか」という声も寄せられ、今後、さらに大きな課題となりそうです。









(※1)現在の都立練馬城址公園。
(※2)平成元年春に上流開きょ部で清流が復活しました。

「千川上水」は今回で終了し、次回からは「田柄用水」を紹介します。

昭和62年5月21日号区報
写真上:暗きょ化直後の千川通り(昭和31年頃 豊玉北6-14付近から東を望む 右側歩道の位置が千川上水跡)
写真下:清流の復活(平成元年4月 関町南3丁目付近の千川上水)

◆本シリーズは、練馬区専門調査員だった北沢邦彦氏が「ねりま区報」(昭和61年4月21日号~63年7月21日号)に執筆・掲載した「ねりまの川-その水系と人々の生活-」、および「みどりと水の練馬」(平成元年3月 土木部公園緑地課発行)の「第3章 練馬の水系」で、同氏に加筆していただいたものを元にしています。本シリーズで紹介している図は、「ねりま区報」および「みどりと水の練馬」に掲載されたものを使用しています。