千川上水の分水を訪ねて(1)

ねりまの川

 千川上水が流域の村々の水田灌漑(かんがい)に利用されることとなったとき、上水本流からは、何本かの分水が引かれ、近在の自然河川流域の低地に導かれました。
 この分水は、明治に至る間に相当数を増やしたものと思われます。しかし、明治になって改廃されたものも多く、さらに今日の都市化のため、ほぼ全面的に暗きょ(一部コンクリートでふたをかけている。例外的に武蔵大学構内で泉水として復元)となり、その旧状を訪ねることは非常に困難になっています。
 しかし、用地区分上、今日でも水路敷として残されているところも多く、また旧地籍図や地形図を参考として土地を訪ねれば、何らかの手掛かりは意外に得られるように思われます。
 こうした作業から得た情報を基に、千川上水の水系を復元したものが下図です。分水の多くは、自然河川の源頭部や湧水池(ゆうすいち)、それから流れ出た小川につながれ、自然の条件を巧みに利用していることが分かります。
 以下、今回と次回にわたり主な分水(※1)をご案内します。

千川上水の分水を訪ねて(1)

<関村分水>

 関町南4-26、保谷市(※2)境を北の富士見池方面に引いたもので、水田用水としては最も上流に位置した分水でした。最も古いものの一つと推定され、寛政6年(1794)の文書に「関村田養水」とあるのが、これかと思われます。天明4年(1784)の「関村絵図」に、その姿をとどめていますが、明治には関村が利用組合から外れ、水路も廃滅したらしく、今日、そのこん跡はありません。

<上下石神井村分水> 

 上石神井1-32、青梅街道を千川上水本流がくぐる位置から北に分水され、上石神井・下石神井両村の水田用水として利用されていたと推定されます。江戸時代の「千川用水堀絵図」に「上下石神井村分水」と表記され、年次不明の上石神井村の村絵図にその形状が描かれています。これも最も古い分水の一つと思われますが、明治に両村が利用組合から抜け、この水路も廃されたようです。現在、同地付近は畑と住宅(※3)で、水路のこん跡は残っていません。

<多摩郡六か村用水>

 関町南2-6付近、青梅街道南脇から同街道に沿って杉並区域に向かい、上井草・下井草・上鷺宮・天沼・阿佐ヶ谷・下荻窪の六か村(江戸時代の文書には中村が併記)への分水として利用されていました。その先端は、阿佐ヶ谷駅付近に達し、この間、妙正寺・桃園・善福寺の各川の流域の水田を潤していました。

<中村分水>

 中村北3-9脇の道路下、区画整理で水路変更後に暗きょとなり、今日では一部路地状で、それと分かる程度となっています。寛政6年の文書に「中村田養水」、明治17年ごろの「千川上水路図」に「中村用水」とあり、南蔵院南側にあった水田に利用されていました。

千川上水の分水を訪ねて(1)

(※1)分水名称は、〇〇村田養水、〇〇村用水と表記される場合が一般ですが、当稿では便宜上、多摩郡六か村用水以外は〇〇村分水に統一しました。
(※2)現在の西東京市
(※3)現在はほとんどが住宅地

昭和62年3月21日号区報
写真:千川上水 関町南2-6付近(昭和27年・石神井公園ふるさと文化館所蔵)

◆本シリーズは、練馬区専門調査員だった北沢邦彦氏が「ねりま区報」(昭和61年4月21日号~63年7月21日号)に執筆・掲載した「ねりまの川-その水系と人々の生活-」、および「みどりと水の練馬」(平成元年3月 土木部公園緑地課発行)の「第3章 練馬の水系」で、同氏に加筆していただいたものを元にしています。本シリーズで紹介している図は、「ねりま区報」および「みどりと水の練馬」に掲載されたものを使用しています。