42 盛んだったたくあん漬け ~大泉村「奉公」談(2)~

古老が語るねりまのむかし

須崎 竹次郎さん(明治42年生まれ 西大泉在住)

<5時間かけて鶯谷の市場へ>

 12歳で大泉村の農家に奉公に出た私は、16~17歳ごろから、手車(てぐるま)に野菜を積んで青果市場へ出荷する仕事をするようになりました。市場は、当時鶯谷にあった坂本市場というところです。
 朝2時ごろ家を出て、清戸道(きよとみち)を進み、目白駅辺りに差しかかると夜が明けます。市場に着くのは7時ごろでした。
 そして、セリが終わるのを待って、その日の代金を受け取って帰ります。野菜は手車1台分で3円か3円50銭くらいになりましたが、ときにはよい値が付いて、「今日は4円で売れた」と喜んで帰ったこともあります。当時、たくあん漬けが4斗樽(たる)1本で3円か3円50銭で、私の給金は1年で50~60円という時代でした。
 市場へ出かけるときは弁当を用意して行くのですが、別にもう1食分として30銭をもらって家を出ました。帰りがけに途中の茶店に寄って牛めしを食べても10銭で済ますことができ、大福餅なら10銭で6個も買えました。
 奉公先の家に帰り着くのは午後3時前後になりますが、帰るとすぐ畑へ行って、暮れ方まで働きました。
 その後、村に朝鮮牛が入ってきました。つぎつぎに牛を飼う農家が増え、そうした家では手車の代わりに牛車に野菜を積んで市場へ出かけるようになりました。もちろん一度に運べる量も増えることになります。また、帰りに下肥をくみ取って来るときにも牛車が活躍しました。

<たくあん漬けが農産品評会で入賞>

 昭和の初めごろは、練馬地域を中心に練馬大根の生産が盛んで、大泉地域でもたくあん漬けを兼業する農家が増えました。
 戦時中には、むしろ石神井や大泉の方が中心になり、私の奉公先では下請け分も含めて4斗樽で1万樽以上も漬けていました。作業員も5~6人いて、私が責任者を務めていました。漬け込みの時期になりますと、朝5時ごろから夜12時ごろまで作業が続きました。
 私が20歳のころ、東京府の農産品の品評会にたくあん漬けを出品したところ、2等賞に入賞しました。それを機に、家の商標のたくあん漬けが市場で1樽につき50銭も値上がりし、喜んだ主人は私に賞金として5円をくれました。
 その後、私は市場の紹介で漬け物の指導者となり、大泉から石神井、田無、小平、遠くは千葉県の富津辺りまで指導に出かけました。
 当時、奉公先での賃金は1日50銭くらいでしたが、指導に出かけると報酬は1円50銭で、残業などをすると2円50銭くらいになったものです。
 奉公先にはその後もお世話になり、ついには、この西大泉に永住することとなりました。
 この間、昭和3年の昭和天皇即位記念の際、私は奉公先に足かけ8年間努めているとのことで、当時の町田大泉村村長から表彰状と金一封(1円)をもらいましたが、表彰状は空襲で焼けてしまいました。

聞き手:練馬区史編さん専門委員 亀井邦彦
平成4年7月21日号区報

写真:農家のたくあん漬け風景(昭和初期)