現町名33<関町北 せきまちきた>

ねりまの地名今むかし

 江戸時代の官選地誌『新編武蔵風土記稿』に「豊島氏石神井ニ在城セシ頃関ヲ構へシ所ナリ今モ大関小関ノ小名アルハ其遺跡ナリ」とある。これが関村の地名の起こりらしい。また、石神井川の堰に由来するという説もある。堰は古来、井関とか、井口というから、村の開発者で、本立寺(ほんりゅうじ 関町北4-16)の開基である井口氏と地名の結びつきも考えられる。
 関町北は旧関村のうち北を富士街道、南を青梅街道で区切り、西を西東京市に接する。明治22年、町村制施行で、石神井村大字関となり、昭和7年、板橋区誕生のとき石神井関町となった。のち、練馬区独立の際、石神井の冠称をとった。昭和53年、住居表示が実施され現町名となった。
 明治7年、区内で最初の公立学校の分校として創立した石神井西小学校は、明治9年、独立の際、豊島郡の豊と、関村の関をとって豊関学校といった。明治35年、現在の校名に改めた。
 西武新宿線武蔵関駅は昭和2年開設。同じころ青梅街道との間20万坪(66万㎡)に土地改良・区画整理事業が行われ、住宅地として分譲された。そのため、駅の乗降口はしばらくは南口だけだったので駅南側の発展が早かった。町には溜淵(ためぶち)遺跡、天祖神社東遺跡、天祖神社(旧番神様)※などの史跡がある。
 毎年12月9日と10日に、本立寺のお会式(えしき)に合わせて、寺の門前に江戸時代から続く「関のぼろ市」(区無形民俗文化財)が開かれ、たくさんの露店が立つ。

※天祖神社(旧番神様) ・・・昭和49年に社名を天祖若宮八幡宮に改めた

現町名33<関町北 せきまちきた>

写真:石神井西小学校での授業風景(昭和7年)

ねりま区報 昭和59年10月21日号 掲載

このコラムは、郷土史研究家の桑島新一さんに執筆いただいた「練馬の地名今むかし」(昭和59年6月~昭和60年8月区報連載記事)と「練馬の地名今むかし(旧地名の部)」(昭和60年11月~昭和61年4月区報連載記事)を再構成したものです。