現町名21<南田中 みなみたなか>

ねりまの地名今むかし

 昔は田中村といった。天正18年(1590)の徳川家康江戸入府のころは、となりの谷原村とともに増島左内という人の領地であった。その後、幕府の直轄領となり、江戸時代中ごろ谷原村の北(今の三原台)に飛地を開墾し、田中新田を拓いた。
 改修前の石神井川両岸、今の南田中団地一帯は田中村の水田であった。田んぼを前にした南側台地から田中村はひらけていった。そこには今も橋の名に残る長光寺(ちょうこうじ)や薬師堂という古い寺院があった。
 元禄9年(1696)、村の南端に千川上水が通じた。10年後、灌漑用水として利用できるようになったが、用水は田中村を素通りしていた。本格的に利用されるようになったのは明治になって八成(はちなり)水車が最初であった。
 明治22年、町村制実施で石神井村の大字田中となり、昭和7年、板橋区のとき南田中町となった。それまで同じ村であった田中新田は、分かれて北田中町となった。
 昭和46年、住居表示によって北田中町は三原台に変わった。南田中町でも新町名が審議された。北のなくなった今、“南”田中でもあるまい、という意見もあったが、南田中を踏襲する案が有力であった。48年住居表示が実施され、南田中に決まった。
 観蔵院(かんぞういん 南田中4-15)には江戸中期から明治初めまで寺子屋が営まれていた。境内には筆子たちが建てた師匠の供養碑(区史跡)がある。
 十善戒寺(じゅうぜんかいじ 南田中5-20)の本堂は当地の名主屋敷を移築したものだという。

現町名21<南田中 みなみたなか>

写真:南田中にあった牧場(昭和47年 写真後方は南田中団地)

ねりま区報 昭和59年12月11日号 掲載

このコラムは、郷土史研究家の桑島新一さんに執筆いただいた「練馬の地名今むかし」(昭和59年6月~昭和60年8月区報連載記事)と「練馬の地名今むかし(旧地名の部)」(昭和60年11月~昭和61年4月区報連載記事)を再構成したものです。