現町名17<中村 なかむら>

ねりまの地名今むかし

 今回の中村は、現在の「中村」だけではなく、昔一つの村であった中村北と中村南も含む。
 『新編武蔵風土記稿』に古(いにしえ)は中鷺宮村といって上、下鷺宮村と並んでいたが、いつのころからか鷺宮がとれて中村となった、という言い伝えがあるが、とても信じ難いとの記述がある。中村は上、下鷺宮村(中野区)の真ん中に当たらず、伝承の誤りに違いない。地名の語源からは、親村から子村が四方へ分かれ出た場合、その中央にある親村を中村、元村、本村などと呼ぶ。
 昔、良弁(りょうべん)という僧が南蔵院(中村1-15)に錫(しゃく =頭部に数個の小さな鉄の環のついた杖)を止め、近くの塚に経典を埋めたという。南北朝時代の延文2年(1357)のことである。その塚は良弁塚(中村3-11)として今も残っている。塚の前の道は、昔の鎌倉街道と伝えられる。中村の開村はとても古いようだ。
 江戸時代、中村は高家(こうけ)※今川氏の知行地であった。今川氏は幕末まで、この辺一帯を支配していた。杉並区今川の地名はその名残である。
 明治22年、東隣りの中新井村と合併し、同村大字中となり、昭和7年、板橋区中村町1~3丁目となった。関東大震災後から人口の増加、市街地化が始まっていた。町では中新井、鷺宮とともに土地区画整理事業を進めた。昭和20年、事業の完成を機に中村北、中村、中村南の三つに町名地番も整理した。
 昭和47年、住居表示が実施された。街区番号は従来の地番をそのまま踏襲した。このため、向山、貫井に編入された中村橋駅北側の分だけ欠番になってしまった。
 南蔵院、良弁塚のほか八幡神社(中村南3-2)、首つぎ地蔵(同所)、御嶽(おんたけ)神社(中村3-8)など、古社寺や史跡が多い。

※高家 ・・・江戸幕府における儀式や典礼を司る役職。格式の高い家、権勢のある家柄のこと。由緒正しい家。名門。

現町名17<中村 なかむら>

写真:良弁塚内の石塔・石幢七面六観音勢至道標(中村3-11)

ねりま区報 昭和60年5月1日 掲載

このコラムは、郷土史研究家の桑島新一さんに執筆いただいた「練馬の地名今むかし」(昭和59年6月~昭和60年8月区報連載記事)と「練馬の地名今むかし(旧地名の部)」(昭和60年11月~昭和61年4月区報連載記事)を再構成したものです。