現町名12<田柄 たがら>

ねりまの地名今むかし

 江戸時代の田柄は、現在の田柄の約2倍の広さがあった。東は北町の自衛隊付近(当時の下田柄)から、西は光が丘(当時の上田柄)まで、上練馬村・下練馬村にまたがっていた。寛永16年(1639)の検地帳に見られる古い地名だが、その由来は定かでない。
 この辺のことを江戸の地誌『四神地名録(ししんちめいろく)』は「畑在所にて田方一分(いちぶ)ばかり、風土すぐれず広きといふのみ」といっている。わずかな田も、水利はほとんどお天気まかせ。水の涸(か)れた空(から)の田んぼがあちこちにあった。田の作柄はあまり芳しくなく、年貢の率は、よそに比べて低かった。
 明治4年、干ばつに悩む村人たちは資金を出し合い、近隣の村々と協力して、玉川上水の分水を引くことに成功した。からの水田は、遠い多摩川の流れで潤った。村人たちの喜びは計り知れなかった。今も天祖神社(田柄4-27)に、その時の記念碑(「田柄用水記念碑」 区史跡)がある。
 昭和7年、旧上練馬村の田柄地区が板橋区練馬田柄町となった。30年代からの宅地化で、田柄川は生活用排水が流され、大雨ごとにあふれ出す「やっかい堀」になってしまった。47年ごろから工事が始まり、今は暗きょ化され、見事な緑道に変身。ジョギングコースにもなっている。練馬大根を川の流れで洗ったのを懐かしんで、その名も「練馬だいこんコース」。昭和42年、住居表示で現町名となった。

現町名12<田柄 たがら>

写真:「田柄川今昔」(著作:郷土研究家 桑島新一氏)より抜粋

ねりま区報 昭和60年3月11日 掲載

このコラムは、郷土史研究家の桑島新一さんに執筆いただいた「練馬の地名今むかし」(昭和59年6月~昭和60年8月区報連載記事)と「練馬の地名今むかし(旧地名の部)」(昭和60年11月~昭和61年4月区報連載記事)を再構成したものです。