現町名5 <早宮 はやみや>

ねりまの地名今むかし

 江戸時代は下練馬村の「早淵(はやぶち)」と、「宮ヶ谷戸(みやがいと)」といった。2つの字(あざ)の1字ずつをとって今の町名にした。淵は澪(みお)のことで、川の底が深く、舟が通りやすいところをいう。石神井川の大橋の辺りから高稲荷下にかけては、両岸がせり出し、川は瀬となって水の流れが早かった。その付近の左岸(早宮1丁目・3丁目)を昔から「早淵前(はやぶちまえ)」といっていた。
 明治になって江戸時代の「早淵」は「東早淵」、「西早淵」、「北早淵」などに、「宮ケ谷戸」は「北宮」、「中宮」、「南宮」などの小字に分割された。明治22年町村制施行後は、これらの分割地名が公称となった。
 ここは昭和4年「練馬町」を経て、同7年板橋区練馬仲町4~6丁目となった。昭和40年新たに住居表示が実施されることになった。地元では明治15年開校の開進第一小の学校名をとって、町名を「開進」とする案が有力だった。しかし、開進の名は小・中学校おのおの第一から第四まで8校があちこちの地域にあり、特定の町名には、ふさわしくないということで早宮に決まった。
 練馬区内の現町名のうち、旧地名の合成はこの早宮だけである。合成地名は歴史的に古いものの、最近は旧地名の尊重と否定の妥協の結果だとして、地名本来の純潔をあやぶむ声もある。

現町名5 <早宮 はやみや>

写真:開進第一尋常高等小学校(昭和5年)

ねりま区報 昭和59年11月1日 掲載

このコラムは、郷土史研究家の桑島新一さんに執筆いただいた「練馬の地名今むかし」(昭和59年6月~昭和60年8月区報連載記事)と「練馬の地名今むかし(旧地名の部)」(昭和60年11月~昭和61年4月区報連載記事)を再構成したものです。