現町名2<錦 にしき>

ねりまの地名今むかし

 全国に「錦町」という地名は多い。千代田区錦町は江戸時代一色(いっしき)家の屋敷が2軒並んでいたので俗に“二色小路”と呼んだのに始まるという。また、立川市錦町は大正元年陸軍大演習の時、この地に錦の天皇旗が立ったのにちなむという。
 練馬区の場合は町がつかない。全国的にも珍しく、東京ではここだけである。もと、この辺は昭和の初めまで下練馬村の「今神」(錦1丁目)、「御殿」、「東本村」(錦2丁目)であった。「御殿」にはこんないい伝えがある。
 徳川5代将軍綱吉がまだ将軍になる前、脚気(かっけ)に悩んで練馬村へ転地療養した。そのときの御殿がここだというのである。また綱吉が病のつれづれに栽培させたのが練馬大根の起こりだともいう。
  昭和7年板橋区の「練馬北町」、「練馬仲町」の一部となった。新住居表示で北町の名は残ったが、仲町の名は消えた。代わりに錦をはじめ平和台、氷川台、早宮などの新しい町名が生まれた。錦は御殿にあやかって豪華できらびやかな町発展の願いがこめられている。練馬の古刹(こさつ)、金乗院(こんじょういん 錦2-4-28)と円明院(えんみょういん 錦1-19-25)は、そうした中に今も静かなたたずまいをみせている。

現町名2<錦 にしき>

写真:暗きょになる前の田柄川(昭和54年 「田柄川今昔」より転載)

ねりま区報 昭和59年7月21日 掲載

このコラムは、郷土史研究家の桑島新一さんに執筆いただいた「練馬の地名今むかし」(昭和59年6月~昭和60年8月区報連載記事)と「練馬の地名今むかし(旧地名の部)」(昭和60年11月~昭和61年4月区報連載記事)を再構成したものです。