旧地名13<小榑村 こぐれむら>

ねりまの地名今むかし

現在の大泉学園町西大泉南大泉

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旧地名13<小榑村 こぐれむら>

 榑(ふ)は神木、クレは山出しの木材のこと。村はコグレともヲグレとも呼んだ。コもヲも美称である。また一説に高句麗(こくり)に由来し、古代朝鮮からの渡来者に関係する地名ともいう。近くの白子・新倉・志木がそうだからうなずけぬこともないが、後考に待つとする。
 『小田原衆所領役帳(おだわらしゅうしょりょうやくちょう)』には小榑・保屋九十八貫文とある。保屋は保谷市(現:西東京市)のことである。
 『新編武蔵風土記稿』は小榑村の小名(こな)を堤村(つつみむら)、小作(おざく)、榎戸(えのきど)、中島(なかじま)、水溜(みずったまり)と記す。堤村には、「俗ニ四面塔トモイヘリ」と注記がある。『武蔵国郡村誌』は前新田、四面塔(しめんとう)、経塚(きょうづか)、広沢と記し「此四字地の内に小字あり一々掲げず」とある。『新座郡各村字届書』には、その小字が実に75も記載されている。
 堤村は西大泉2・5丁目一帯をいう。現在は暗きょとなったが大乗院(だいじょういん 西大泉5-17)の前を西から東へ川が流れていた。堤村はその川の北側段丘面にある。稲荷神社(西大泉5-1)の前に享保元年(1716)、堤村講中造立の四面塔題目碑(しめんとうだいもくひ)が建つ。神社も通称四面塔稲荷という。地名の起こりは四面の石塔があったばかりでなく、ここが四辻なので四面道(しめんどう)といったのがはじまりであろう。
 小作は堤村の北、西大泉5・6丁目の新座市境。コサクともいうが、いわゆる小作地ではなかろう。サクは地名の久保と同じ意味で使われる。近くに、おざく児童遊園がある。
 榎戸は大泉第六小学校辺り。戸は処(ところ)のト。目印になるような榎の木があった所であろう。
 中島のシマは川端の低地にできた耕地のこと。大泉村時代に村役場があった。現在は児童遊園になっており、そばに中島橋がある。
 水溜は南大泉2・3丁目付近。低地なのでいつも雨水が溜り、細い流れとなって井頭池(いがしらいけ)へ通じていた。
 前新田は水溜の南で関村と接する。
 経塚は妙福寺(みょうふくじ 南大泉5-6)が天台宗から日蓮宗に改宗のとき、経典を埋めたという伝説の地。
 広沢は村の北、他村にわたっての総称である。

ねりま区報 昭和61年3月11日号 掲載

このコラムは、郷土史研究家の桑島新一さんに執筆いただいた「練馬の地名今むかし」(昭和59年6月~昭和60年8月区報連載記事)と「練馬の地名今むかし(旧地名の部)」(昭和60年11月~昭和61年4月区報連載記事)を再構成したものです。