牧野博士と寿衛子夫人

牧野庭園だより

 牧野富太郎博士が、自分の発見したササに、寿衛子夫人の名を冠し、「スエコザサ」と名づけたことは有名な話です。シリーズ最終回の今回は、博士の人物面を取り上げ、博士夫妻の愛情あふれる話を紹介します。

夫妻のなれそめ

 
 牧野博士は、明治17年、植物研究に大きな志を抱いて上京し、理科大学(現在の東京大学理学部)の植物学教室に籍を置いて研究に没頭しました。
 明治22年には、28歳の若さで、日本人で初めて、ヤマトグサに学名をつけ世界に発表するという偉業を成し遂げました。
 このころ、麹町の下宿から本郷の教室への道に菓子屋があり、そこに美しい娘さんがいました。富太郎青年は彼女に恋をし、二人は明治23年に結婚しました。酒もタバコも飲まない博士は菓子が大好物だったらしく、「自然と菓子屋が目につき、この美しい娘を見染めてしまった」と随筆に書いています。

世界的植物学者を支えた内助の功

 郷里の家産を元手に自由に研究を続けてきた博士も、このころには財産を使い果たしてしまい、ついに郷里の家財を整理し、東大助手として薄給に甘んじる生活を始めていました。
 子どももたくさん生まれ、食費にも事欠くような暮らしの中で、寿衛子夫人は博士が安心して研究に打ち込めるようにと心を尽くしました。借金の取り立てが来ると家の外に赤旗を立てて博士に知らせ、博士は借金取りが帰って赤旗がなくなるまで外で待っていた、というエピソードもあります。
 こうした夫人の内助に加え、博士の才能を認めて援助の手を差しのべる人々のおかげで、一家は苦境を脱し、大正15年には大泉に居を移すことができました。夫人はここに立派な植物標本館を建て、牧野植物園をつくりたいという夢を抱いて大いに張り切っていたそうです。

“世の中のあらん限りやスエコ笹”

 昭和2年には理学博士の学位を得て、いよいよこれから博士の努力が報われるというときに、夫人は55歳でこの世を去ってしまいました。博士は、最愛の夫人をしのび、前年に仙台で発見した新種のササに夫人の名を冠し、「スエコザサ(学名ササエラ・スエコアナ・マキノ)」と名づけたのでした。
夫人の墓は、谷中天王寺に博士の墓とともにあり、墓碑には博士の俳句が二句、亡き夫人への限りない感謝と愛情をこめて深く刻まれています。





                        
家守りし妻の恵みやわが学び
                        世の中のあらん限りやスエコ笹

昭和60年9月11日号区報
※写真は「牧野博士夫妻(大正15年ごろ 個人蔵)」と「スエコザサ」

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