(6)練馬の商工業

ねりまの歩み

商工業の芽生え

 江戸時代も中期以降には、商品経済が練馬のような農村部にも及ぶようになった。それまで主に自給自足をしていた農具や肥料、あるいは生活用品の何割かは、金銭を出せば容易に手に入る時代となったのである。
 こうした時代を反映して、練馬の村々にも商工業を営む人が定着した。その大半は「農間渡世(のうかんとせい)」といって、普段は農業に従事し、必要に応じて商いをし、あるいは職人として働く人々であった。その種類には荒物、小間物、履物、菓子、あめ、たばこ、豆腐、油、金物などがあり、職人には鋳かけ、桶職、大工、屋根葺(ふ)き、木びき、髪結などがあった。酒造、醤油、酢醸造などを行う家もあったが、これらは大規模な設備も要することから、一般に名主や組頭級の大農家で経営されることが多かった。また、質物や古着を扱うのも、相当な資産を必要としたようである。
 そのほか、初期の工業手段として利用されたものに水車がある。石神井川、白子川流域には早くから設けられ、コメの精白、麦やそばの製粉を通じて地域の需要に応じるだけでなく、江戸への販売を目指した商業面でも相当な役割を果たした。水車営業は特定個人の経営に任されたため、同じ水路を水田灌漑(かんがい)に利用する村人たちにとっては迷惑なものとなり、水腐れなどが生じて、ときに水争いを起こしている。

農工共存の時代

 練馬の地場産業として知られた、たくわん漬け(沢庵漬け)も加工業の典型として上げられる。初めは、一般の農家で大根栽培からたくわん漬けまで一貫して行っていたが、明治末から大正に至るころには、次第にその役割を分担し始めた。漬物専門の工場をつくり、漬け方に工夫をこらした専門家ができるとともに、大根生産に専念する農家が増えた。
 農耕の共存共栄という面では、石神井方面に発展した養蚕もその一つである。明治12年、上石神井村1933番地(現三宝寺東側)に、栗原仲右衛門、本橋勝右衛門らにより製糸会社「興就社」が資本金1万円で設立された。その製品が好評を博したことから、本橋は興就社を栗原に任せ、明治14年、3万円の資本金を集めて下石神井村219番地(現下石神井4-9)に、新たに「東京同潤社」を興したが、同年の暴風で大被害を受けたのをはじめ、資金繰りにつまずき、同17年に倒産、その後、ほかの資本が入って別会社となった。一方、興就社も増資に失敗、明治21年には倒産という経緯をたどっている。しかし、その技術は後世に引き継がれ、昭和初期まで同地の養蚕業を支える礎石となった。もっとも同地の養蚕を活気づけた背景には、群馬県の養蚕家や長野県の製糸会社との結びつきが大きかったこともあげておきたい。また大泉方面では、養蚕のほかに撚糸(ねんし)業を行った家もあった。

都市化と工業

 大正3年の東上鉄道(現東武東上線)、同4年の武蔵野鉄道(現西武池袋線)の開通後、沿線の地価の安い農地を対象に、北町あるいは貫井から練馬にかけていくつかの工場が進出している。
 練馬駅北側にあった鐘紡練馬工場もその一つである。前身は大正9年に開業した大日本紡績であったが、その後、上毛モスリンが買収。関東大震災で工場が倒壊し、9名の犠牲者を出し、これがきっかけとなり、工場は武蔵野紡織に譲渡され、さらに東洋モスリン(後の東洋紡織)を経て、昭和16年に鐘淵紡績に吸収された。
 こうした工場も、戦後の宅地化の中で住宅との共存が難しくなり、相次いで区外への移転が行われた。鐘紡も昭和45年に閉鎖され、その跡地は今日、練馬文化センターとなり、中村橋駅北側にあったニチバン跡地には、サンライフ練馬や区立美術館が建てられている。

商工業の現況

 戦後練馬区は急速に家が建ち、今日では有数なベッドタウンとなった。こうした環境から、商工業にもそれなりの性格が生じている。事業所別にみれば、商業など第三次産業が79.5%、製造業など第二次産業が20.2%、農業など第一次産業は0.2%(昭和56年度事業所統計調査)となっている。商店数は1万444店(昭和57年度商業統計調査)、工場数は2千174件(昭和58年度工業統計調査)を数えているが、従業員10人未満の中小企業が多く、勤労者の労働条件などに生ずる大企業との格差もある。(※)
区ではこうした格差縮小への対策として、他区に先がけ共済事業を行い、このほか、融資事業なども行っている。さらにサンライフ練馬、勤労福祉会館の建設により、一層の福利厚生を目指している。

※記載された数字は区報で掲載した昭和61年当時のもので、今日とは大幅に異なります。

(6)練馬の商工業

昭和61年11月1日号区報

写真:練馬駅付近(煙突がある建物は鐘淵紡績練馬工場)  昭和25年頃