現町名36<大泉学園町 おおいずみがくえんちょう>

ねりまの地名今むかし

 区の西北端に位置し、町の面積は区内最大。古くは小榑(こぐれ)村といった。明治24年埼玉県から東京府に併合、大泉村となった。村役場は現在の中島児童遊園(大泉学園町2-2)の所に置かれた(旧大泉村役場跡は区史跡)。
 関東大震災直後、箱根土地株式会社という会社がここに一大学園都市を開発しようと計画した。碁盤の目のように整備した土地は坪10円で売り出された。今では夢のような話である。昭和7年板橋区成立のとき大泉学園町と名付け、それまで「大泉駅」、「東大泉駅」といっていた駅名も現在の「大泉学園駅」に改めた。しかし大学誘致も、住宅開発も思うにまかせなかった。
 一方、東京市は付近の山林を借りて開墾、今でいうレジャー農園を開設した(大泉公園のところ)。市民農園と呼ばれ一時は大いに賑わった。都民農園のバス停はその名残りで、駅前からの桜並木も、そのころ植えられた。
 昭和16年朝霞(旧キャンプ朝霞南地区)に陸軍予科士官学校が開校され、表門が東京側の大泉学園町にできた。戦後、米軍と自衛隊が使用、昭和48年に返還された。そこには現在、各種の教育施設や公園ができ学園の名にふさわしい街づくりが整ってきた。町も急成長を遂げている。

写真:大泉村役場(年不詳)

ねりま区報 昭和59年6月21日号 掲載

このコラムは、郷土史研究家の桑島新一さんに執筆いただいた「練馬の地名今むかし」(昭和59年6月~昭和60年8月区報連載記事)と「練馬の地名今むかし(旧地名の部)」(昭和60年11月~昭和61年4月区報連載記事)を再構成したものです。