現町名14<春日町 かすがちょう>

ねりまの地名今むかし

 “飛ぶ鳥”のアスカ、“春の日”のカスガと大和の地名は優しく、雅(みやび)やかだが、語源はいまひとつはっきりしない。ここ春日町の名の起こりは、旧村社春日神社(春日町3-2)に由来する。昭和7年、市郡合併で板橋区が成立、それまで上練馬村の「中ノ宮」、「海老ケ谷(えびがやつ)」、「尾崎」といっていたところが春日町1丁目、2丁目となった。
 春日神社は鎌倉時代、工藤祐経(すけつね)の孫、祐宗(すけむね)が頼朝に従って奥州征伐に向かう途中、自分の先祖藤原氏の氏神である大和の春日神社の祭神をここに勧請(かんじょう)して、戦勝を祈願したのにはじまるという。その後、練馬城(豊島園跡地)の城主、豊島泰経(やすつね)も一族の守護神として当社を深く崇敬した。豊島氏没落後、あとの城主、海老名左近はここを居館の一部とした。小字「海老ケ谷」は海老名氏ゆかりの地名だという。
 神社は江戸時代、十羅刹女(じゅうらせつにょ)社と呼んでいたが、明治の神仏分離で、十羅刹女社は隣の寿福寺(春日町3-2)へ、祭神は春日神社として祭られた。
 愛染院(春日町4-17)前の交差点付近を「中ノ宮」という。江戸時代には近くに名主役宅や高札場、郷蔵(ごうくら)などがあって村の中心だった。明治になってから、そこに村役場や小学校、登記所ができた。
 春日小学校(春日町5-12)建設に伴って古代遺跡が発見され、練馬の歴史にとって貴重な資料が数多く出土した。遺跡は地名をとって尾崎(おさき)遺跡と呼ばれている。昭和42年、住居表示が実施された。

※尾崎遺跡 
 昭和58年都指定文化財・昭和63年区登録文化財
 遺跡の多くは埋め戻し保存された。春日小学校内には尾崎遺跡資料展示室がある。
 (見学にあたっては、学校への事前予約が必要)

現町名14<春日町 かすがちょう>

写真:尾崎遺跡発掘調査(春日小学校建設地 昭和54年)

ねりま区報 昭和60年6月1日 掲載

このコラムは、郷土史研究家の桑島新一さんに執筆いただいた「練馬の地名今むかし」(昭和59年6月~昭和60年8月区報連載記事)と「練馬の地名今むかし(旧地名の部)」(昭和60年11月~昭和61年4月区報連載記事)を再構成したものです。